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大学受験 日本史 国公立2次向け 理解度チェックリスト(古代5・中世1)

以下の問に答えられますか

答えは次の記事で

 

1. 律令支配の基盤であった戸籍・計帳の制度が崩壊して行く過程を、崩壊の理由と再建策に触れながら説明できる。
2. 10世紀に構築された新たな地方支配体制を、国司の変容とその利権・責任という面から説明できる。
3. 受領の地位が利権化した結果として、国司層が行った行動を説明できる。
4. 寄進地系荘園の成立過程を説明できる。
5. 公領(国衙領)の成立過程を説明できる。
6. 不輸・不入の権の内容と効果を説明できる。
7. 武士の出現と武士団形成の経緯を説明できる。
8. 武士の家の構造を説明できる。
9. 平将門藤原純友の武力基盤を説明できる。
10. 武士が成長していった理由を、中央貴族の関係と地方における国衙との関係から説明できる。
11. 東国の三つの争乱を通じて源氏が武士の棟梁として成長していった過程を説明できる。
12. 後三条天皇摂関家にはばかることなく荘園整理を断行できた背景を、外戚関係や人材登用の面から説明できる。
13. 荘園と公領の同質化について説明できる。
14. 院政開始の背景やねらいについて説明できる。
15. 院政摂関政治の経済基盤の共通点と相違点を説明できる。
16. 院政期の造寺造仏と成功の関連性について説明できる。
17. 知行国制度について説明できる。
18. 強訴が武士の成長に果たした役割を説明できる。
19. 奥州藤原氏の経済と文化の独自性を説明できる。
20. 保元の乱の背景と経過に着目して、その歴史的意義を説明できる。
21. 平治の乱の背景と経過に着目して、その歴史的意義を説明できる。
22. 平氏政権の貴族的性格と武士的性格を説明できる。
23. 平氏政権の経済的基盤を説明できる。
24. 院政期の文化について、時代背景や担い手の変化に着目して説明できる。

 

前回(古代4)の解答

 

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1. 仏教政治の弊害を改めて、天皇権力を強化するため。


2. 七世紀後半、孝徳朝に渟足柵と磐舟柵を日本海側に設け、斉明朝に阿倍比羅夫を派遣した。八世紀の前半には出羽国を設置して、陸奥国多賀城を建造して、陸奥国府と鎮守府を置いた。九世紀には征夷大将軍坂上田村麻呂阿弖流為を帰順させ、胆沢城を築いて鎮守府をそこに移した。桓武朝の末期の徳政相論によって征夷と造都の停止が決定され、嵯峨朝の文屋綿麻呂の遠征を最後に大規模な征夷は行われなくなった。


3. 国家財政や民衆にとって、大きな負担となったから。


4. 国司交代の際の事務引継を監督する勘解由使を設けた。辺要を除いて軍団・兵士を廃止して、郡司の子弟からなる健児制を採用した。また、12年毎としつつも、班田の励行をはかった。


5. 天皇の命令を太政官に直接伝達するために蔵人頭を設置した。平安京内の警察を担当する検非違使をおいた。政治実務の便をはかって、弘仁格式を編纂した。財源を確保するために直営田を設けた。


6. 蔵人所が掌る宣旨はやがて詔書や勅書にかわる役割を果たすようになり、詔勅の伝宣を主務とする少納言局中務省が形骸化していった。検非違使はのちに裁判も行うようになり、弾正台や衛府の本来の役割を奪っていった。


7. 籍帳にもとづく人頭税方式は、農民の浮浪逃亡によって籍帳が有名無実化すると崩壊した。それゆえ、国司が徴税できなくなっていった。


8. 朝廷などは財源を確保するために直営田を設けたが、直営伝の徴収方式は実質的には地税と化しており、後の税収方式の転換の先駆となった。


9. 当時の貴族社会では、結婚した男女は妻側の両親と同居し、母方の縁が重んじられていた。藤原氏天皇のもっとも身近な外戚として、伝統的な天皇の高い権威を利用して、大きな権力を握った。


10. 威子が入内することによって、三代の天皇の皇后がすべて道長の娘という空前の自体が現出し、摂関政治の全盛期をもたらした。


11. 太政官は機能しており、政策の伝達は太政官からなされたが、重要な問題は陣定で話し合われて天皇の決裁の参考にされた。官吏の人事権は摂関が掌握していたので、中・下級貴族は摂関家に隷属した。


12. 頼通が入内させた娘が皇子を産まなかったため、藤原氏を生母としない後三条天皇が即位して天皇親政が始まった。藤原教通が関白となったが、天皇外戚ではなかったため力をもてなかった。


13. 当時は新羅や唐の商人が頻繁に来航して貿易が行われていた。また、安史の乱以来唐の衰退が著しかったため、道真は、あえて危険を冒してまで渡唐する必要はないとした。


14. 中国では宋がおこり、渤海は遼に滅ぼされ、朝鮮半島では高麗がおこった。日本は、それらの諸国とは国交を開かなかった。高麗とのあいだいは商人などの往来があった。


15. 文章経国思想とは、文芸は国家の支柱として国家の隆盛を担う政治的役割をもっているという考え方。


16. 貴族が教養として漢詩文をつくることを重視したためえ、漢文学が盛んになった。儒教を学ぶ明経道や中国の歴史・文学を学ぶ紀伝道が盛んになって、貴族は一族子弟の教育に力を入れた。


17. 桓武天皇の支持を背景に延暦寺を開いた最澄は、大乗戒壇創設をめぐって南都諸宗と対立した。皇室や貴族は加持祈祷による現世利益を求めて密教に期待したが、最澄密教を正式には学んでおらず、正式に密教を学んで帰国した空海嵯峨天皇の支持を得た。正式な密教を学ぶ必要を痛感した天台宗では、円仁・円珍が唐に渡って、その密教化をはかった。


18. 漢字の字画の一部をとってほかを省く省画がなとして生まれた片仮名は、仏典など漢文を訓読する際の補助記号として発達した。貴族の手紙などに用いられるようになる平仮名は、万葉仮名の草書体を簡略化してつくられていった。


19. かな文字が広く使用されるようになり、人々の感情や感覚を日本語で生き生きと書き表すことができるようになったため。


20. 盗賊や乱闘が多くなり、災厄がしきりにおこった世情により末法思想が流行した。そうした世情を背景に、空也が京の市で浄土教をとき、源信が念仏往生の教えをとくなどしたため。


21. 書道では、平安前期における唐風の書にかわって、優美な線を表した和様が発達した。絵画では、中国の故事や風景を描いた唐絵に加えて、日本の風物を題材とし、なだらかな線と上品な彩色をもつ大和絵も描かれた。


22. 定朝が完成したとされる寄木造の手法は、仏像の各部位をそれぞれ別々につくり、あとにそれらを組み上げて造像するものである。寄木造によって、用材の制限を受けずに大きな像をつくることができるようになり、各部位を多くの仏師が分担してつくることによって作業が早く進み大量の需要に応じることができるようになった。


23. 年中行事とは、一年の特定の日に慣習として行われる行事のこと。平安時代の禁忌としては、引きこもってつつしむ物忌や、凶の方角を避けて行動する方違などがあった。

 

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