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大学受験 日本史 国公立2次向け 理解度チェックリスト(中世3)

以下の問に答えられますか

答えは次の記事で

 

1. 南宋と日本の経済的・文化的交流と、モンゴルの要求に対する日本の対応の関係を説明できる。
2. モンゴルと日本の戦術の相違に触れつつ、蒙古襲来の経過を説明できる。
3. 中国・朝鮮の民族的抵抗と蒙古襲来との関連性を説明できる。
4. 蒙古襲来をきっかけに幕府勢力が西国に浸透したことの影響を、非御家人に対する権限拡大の面から説明できる。
5. 御家人御内人の対立の背景、経過、結果を説明できる。
6. 琉球における貝塚時代からグスク時代への変遷を説明できる。
7. 蝦夷ヶ島における文化の変遷と、十三湊との関連性を説明できる。
8. 蒙古襲来後に御家人が疲弊した背景を説明し、女性の財産権や地位が低下していく過程を説明できる。
9. 御家人の疲弊に対する幕府の対応と、その効果と影響を説明できる。
10. 鎌倉仏教の成立の背景と、武士や庶民に普及した理由を説明できる。
11. 鎌倉仏教の出現に対する旧仏教の改革が、戒律厳守や社会事業に向かった理由を説明できる。
12. 中世文学の背景を、公家社会の没落と武家社会の勃興という観点から説明できる。
13. 有職故実宋学がさかんになった背景を説明できる。
14. 寺社の縁起や高僧の伝記が製作された理由を説明できる。
15. 後醍醐天皇の方針とその背景を説明できる。
16. 幕府を滅亡に導いた勢力について説明できる。

 

前回(中世2)の解答

 

nobuta.onestep-mugi3.com

 

1. 背景:平清盛後白河法皇を幽閉して、孫の安徳天皇を即位させると、平氏専制に対する不満が高まった。そうした情勢のなか、皇位継承どころか親王にすらなれなかった以仁王平氏打倒をはかって令旨を発布した。
意義:園城寺興福寺などの僧兵をはじめ、源頼朝など各地の武士団が挙兵して、内乱が全国に広がっていった。


2. 地方の武士は、国司荘園領主に対する所領支配権の強化と拡大を求めていた。それゆえ、貴族的側面を色濃く残す平氏や、朝廷との交渉力に欠ける源義仲は武士の支持を得られなかった。一方、後白河法皇の求めに反して鎌倉にとどまった源頼朝は、東国武士の所領支配を保障して、広く主従関係を確立していった。また、頼朝は朝廷と交渉して、寿永二年十月宣旨で東国支配権を承認させて、武士の要求に答えた。


3. 武士の所領の支配権を強化できることと、それを朝廷に認めさせることができること、および所領訴訟にあたって公平な裁定をくだす調停力。


4. ①1180年:頼朝が侍所を設置。関東南部の実質的支配を始める
  ←鎌倉幕府が鎌倉に拠点を置く(私的な)地方政権であることを重視するから
②1183年:頼朝の東国支配権を朝廷が承認
  ←地方政権(地方支配)が公的なものとなったことを重視するから
③1184年:頼朝が公文所問注所を設置
  ←鎌倉幕府の内部機構が整備されたことを重視するから
④1185年:頼朝が守護・地頭の設置権を獲得
  ←支配権が(一応)全国におよんだことを重視するから
⑤1190年:頼朝が右近衛大将に任命
  ←右近衛大将という名目的地位を重視するから
⑥1192年:頼朝が征夷大将軍に任命
  ←征夷大将軍という名目的地位を重視し、室町幕府江戸幕府と比較的にみるから


5. 簡素で実用的な機構。


6. 主人としての頼朝は、御家人に御恩(本領安堵新恩給与)を与え、これに対して御家人は、従者としての奉公(戦時の軍役・京都大番役・鎌倉番役)をつとめた。


7. 公武二元支配:国(公領)は、朝廷から派遣された行政官である国司と、幕府から派遣された軍事統率者である守護の両者から支配された。荘園は、荘園領主に仕える荘官と幕府に任命された地頭の両者から支配された。
幕府の二面性:武家性と貴族性。武家性としては、地方武士を組織化して、その現地支配力を強固にした。一方、貴族性としては、幕府の経済基盤は関東知行国関東御領(荘園)であり、朝幕関係は朝廷の新制で定められ、朝廷の荘園公領支配を助けることもあったように、公家政権と武家政権は補完関係にあった。


8. 源頼家は武士が命をかけて守ろうとする土地の裁定を不公平に行ったため、将軍の独裁が否定されて有力御家人の合議制となった。


9. 北条時政は頼家の後見の比企能員を滅ぼし、頼家を伊豆修禅寺に幽閉して、実朝を三代将軍とした。こうして幕府の実権を握った時政の地位は執権とよばれて、子の義時に継承された。義時は侍所別当和田義盛を滅ぼして、政所と侍所の別当を兼ね、執権の地位を固めた。


10. 院政を強化して朝廷の勢力を挽回しようとした後鳥羽上皇は、幕府との対立姿勢をもみせていた。実朝暗殺をきっかけに朝幕関係は不安定となり、上皇は皇族将軍の下向を拒否した。そして、上皇畿内・西国の武士や僧兵、北条氏に反発する一部の東国武士を味方に引き入れて、北条義時追討の兵をあげた。


11. 当初、上皇の宣旨により「朝敵」となることに東国御家人は動揺した。しかし、御家人北条政子の呼びかけに応じて結集し、幕府は泰時・時房の率いる軍で京都を攻め、圧倒的な勝利をおさめた。


12. 幕府は後鳥羽・順徳・土御門の3上皇を配流として、仲恭天皇を廃位とした。また、朝廷を監視・警護して西国を統轄するために六波羅探題を設置して、上皇方の所領3000余箇所を没収して新補地頭を任命した。


13. 畿内・西国の荘園・公領にも幕府の力が及び、朝廷と幕府の二元支配は幕府優位に傾き、幕府は皇位継承や朝廷政治にも干渉するようになった。地方では、新補地頭などによる荘園侵略が進んでいった。


14. 泰時は執権を補佐する連署をおいて、北条氏一族を当てた。次に、執権・連署とともに幕府の政務や裁判を処理する評定衆を設置して、合議制にもとづく政治体制を整えた。


15. 御家人同士や御家人荘園領主との紛争を公平に裁くため、頼朝以来の先例や道理とよばれた武士社会の慣習・道徳にもとづいて、裁判の基準を定めた。これは、幕府の勢力範囲を対象とするものであり、朝廷の支配下では律令の系統を引く公家法が、荘園領主のもとでは本所法が効力をもち続けた。


16. 武家の最初の整った法典という意義をもった御成敗式目の影響範囲は、幕府勢力の発展につれて公家法や本所法のおよぶ土地にも拡大していった。また、室町幕府の法令にも武家基本法典として影響をあたえた。


17. 鎌倉時代の武士は、地頭など荘園や公領の管理者として、農民から年貢を徴収して荘園領主国衙におさめ、加徴米などを定められた収入として得ていた。その他、館の周辺部に年貢や公事のかからない佃などとよばれた直営地を設けて、下人や所領内の農民に耕作させた。


18. 惣領制は分割相続で分立した一族の構成員である庶子が、一族の長である宗家の惣領の統制のもとに結集する血縁的結合形態である。この一門は惣領の指揮のもとで団結して戦った。幕府への軍役や年貢・公事の納入は、惣領が責任者となって庶子に割り当てた。


19. 武勇を重んじる武士は、流鏑馬・笠懸・犬追物などで常に訓練された。また、主人に対する献身や、一問の誉を尊ぶ精神、そして恥を知る態度を特徴とする「武家のならい」とよばれた道徳を重んじた。


20. 承久の乱後の幕府の勢力拡大に応じて、地頭の支配権拡大の動きも活発になった。地頭の侵略に直面した荘園領主などは幕府に訴えて地頭の年貢未納などの動きをおさえようとした。しかし、紛争解決のために領主たちは、やむをえず地頭請所の契約を結んだり、下地中分に応じたりした。


21. 畿内や西日本では、麦を裏作とする二毛作が普及していった。大唐米が輸入され、牛馬耕も広まった。刈敷や草木灰といった肥料も利用された。


22. 定期市が開かれて、行商人も現れた。同業者の団体である座が結成され、商品の中継と運送、委託販売を行う問が発達した。また、年貢の銭納もおこり、遠隔地取引には為替も使用された。また、高利貸業者の貸上も登場した。


23. (追加)執権政治から得宗専制政治への変化の歴史的前提を説明できる。
その地位を不動のものとした北条氏は、朝廷内部にも影響力をもつようになった。幕府は皇族将軍という名目だけの将軍を迎えた。こうして執権政治は時頼のもとでさらに強化され、北条氏独裁の性格を強めていった。(合議制→独裁へ)

 

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